うどん小話 番外編 その十八 あん餅雑煮の謎(パート2)
あん餅雑煮の謎を解くためにはどうしても高松藩、松平家のことについてふれなければなりません。高松松平家十二万石の居城は別名玉藻(たまも)城と呼ばれています。これは万葉集の歌人柿本人麻呂が、讃岐国(現在の香川県)の枕詞に「玉藻よし~」と詠んだ事に由来すると言われています。
この玉藻城の最初の城主は生駒親正でした。世に言う戦国時代に、羽柴秀吉の四国平定により播磨の国(現在の兵庫県南部)赤穂から移ってきました。1587年(天正15年)8月のことです。最初は讃岐引田城に移ったのですが、城地が狭く、さらに讃岐国の東端に偏位し不便なため宇多津(うたづ)に築いた聖通寺山城に居を変え、さらに1588年(天正16年)に郷東郡野原庄に新城を建築し本拠としました。これが現在に残る高松城(玉藻城)です。
城の北辺は直接瀬戸内海に面しており、外濠、中濠、内濠の全てに海水が引き込まれた海城(水城)でした。日本国内と言うより世界の"城"のなかでも特異な城です。ちなみに私が高校生の時、この城の堀に、夜がくると"チヌ"・"ボラ"などを盗み釣りに行ったものです。現在でもこの堀には海の魚が飛び跳ねています。
この生駒家は1640年(寛永17年)に御家騒動を起し、出羽国(現在の秋田県)矢島一万石へ移封となりました。
ここで松平家の登場となります。1642年(寛永19年)2月にテレビで有名な"水戸黄門"徳川光圀の兄であり、徳川家康の孫にあたる松平頼重(常陸国、下館藩主)が高松藩主に任じられました。これにより讃岐国高松藩は松平家12万石の藩政が始まるのです。
またまた話が長くなりますので、次ページへと続きます。