うどん小話 番外編 その十九 あん餅雑煮の謎(パート3)
水戸黄門の兄である松平頼重から始まった高松藩松平家は、四代藩主頼桓(よりたけ)が世継ぎが無いまま病で倒れました。そこで一族同意のもと奥州守山藩主松平頼貞の子頼恭(よりたか)を五代高松藩主として迎えるのです。1739年(天文4年)9月のことでした。
高松藩は三代頼豊以来、天災地変が相次ぎ、封内の農地を荒らしました。城下町では大洪水にあい、町家も武家屋敷までもが床下浸水に悩まされていたのです。頼恭の治世中も、水害・旱魃などが毎年のように襲い、災害が 絶えることが無かったのです。藩主自らも倹約を守り、藩士の禄を再三再四減じ、極度に藩費を切り詰めたり、成し得る限りの農民救済につとめました。頼恭は常に「哀れむべきは百姓なり。畏るべきものは百姓なり。」と言い、民百姓を飢えさせてはならぬと説いていました。
このような財政状況のなかで、新田開発と殖産の奨励につとめ、稲作・麦作に不向きな土地を開墾させ、そこに綿栽培・甘蔗栽培などを行なわせたのです。
ここに"讃岐三白"のルーツが始まるのです。
朝鮮半島から伝えられた綿は、瀬戸内海沿岸地域で栽培されていました。高松藩内の香川郡池内・西庄・岡本に至る畑地は綿作地帯でありました・・・・「綿の白となります」。また、梶原景山に塩田開発を命じ、1755年(宝暦5年)に山田郡西潟元村(現在の屋島西町周辺)で塩田三十町歩を完成させました・・・・「塩の白となります」。
さて、最後の"白"であります砂糖の製糖法は、大内郡湊村(現在の白鳥町)出身の向山周慶(さきやましゅうけい)が完成させました。時に、1790年(寛政2年)のことと言われています。今でも白鳥町には周慶を祀る向山社があります。
この小話の本題である"あん餅雑煮の謎"は、"讃岐三白"の一つである砂糖にあることが、もうそろそろおわかりいただけたのではないでしょうか
次のページは、向山周慶と砂糖とあん餅雑煮との関係について書いてみます。