うどん小話 番外編 その二十 あん餅雑煮の謎(最終版)
向山周慶は1746年(延享3年)、大内郡湊村(現在の東かがわ市白鳥町)の生れです。16歳にして、藩医池田玄丈に漢方医学を学びました。
周慶が製糖法を完成させた説には二つあります。
一つは、京都への遊学で薩摩藩の医学生某と交わり、1788年(天明8年)京都の大火の時、この医学生某が災害に遭い、これを周慶が助けたことにより製糖法を伝授されたという説。
二つ目は、関良助と言う薩摩の人が四国遍路の途中、大内郡港川堤防で病にかかり苦しんでいるところを近所の人が見つけ、周慶の家に運んできました。周慶の懸命な治療により病は癒えました。その恩返しに製糖法を教えたという説です。
いずれにしても周慶は製糖法に情熱を傾け、1790年(寛政2年)に砂糖40斤(1斤は600g)余りを作り出すことができたのです。周慶は砂糖を藩に献じると同時に製糖奨励の必要を説き、これをもって藩財政を救済する唯一の策であると建言しました。これにより東讃一円(現在の東かがわ市・さぬき市)で広く栽培されるようになり、舶来糖をしのぐ優良品が多量に製造できるようになりました。
ちなみに、私が小学生の頃まで各町村には製糖工場が一ヶ所は有りました。下校のおり、その工場からサトウキビをちょっと失敬し、ガリガリかじりながら家へ帰ったことを思い出します。遠くで秋祭りの鐘と太鼓の音がしていたような気がします・・・・。
このようにして高松藩の砂糖生産量は、日本国内の8割を占めるに至りました。東浜港(現在の城東町)より大阪に向けて出荷し、その当時の"砂糖相場"は高松藩が決めていたと言われています。
高松藩松平家十二万石は大いに富み、あん入りの餅を目出度い正月の雑煮に入れるよう奨めたのです。もっとも砂糖は貴重品でしたので、正月三ケ日の雑煮に限ったわけです。
話が少々長くなりましたが「あん餅雑煮」は高松藩、そして讃岐人の"富"の象徴であったのです。